50年後の証言 「あさま山荘事件」 1972・2・28 ーあの時、極寒の現場で見た光景(2/2)

会の活動報告

佐藤 永久(東京新潟県人会副会長)

佐藤永久(当時・警視庁公安部・極左暴力集団担当・32歳)の証言

■「発生から3日ほど経ったころ、立てこもり犯の情報収集をするため事件現場へ派遣された。顔を見て身元を特定する「面割」の要員だった。銃弾が飛び交う中、双眼鏡で目を凝らした。主要メンバーの人相は頭に入っていた。立てこもっているのは誰なのか。何人いるのか。そして、なにより人質は無事なのか。」
 機動隊が楯になってくれたおかげで、人数は5~6人だろうと分かった。おそらく坂口弘はいる、とも。しかし詳細はすぐにはわからなかった。」

■真冬の軽井沢は極寒だった。零下15℃、積雪30㎝ 犯人が逃走しないよう、警察官は山荘の周りを幾重にも取り囲んだ。配られた弁当は、あっという間に凍った。

 当時はまだ珍しかった日清食品の「カップラーメン」が現場に持ち込まれ、本来100円だったものを隊員は50円で買った。とにかく、暖かいものがありがたかった。麺をすする様子はテレビで全国放送され、この商品が全国的に有名になる契機となった。

■発生の4日目の22日。「人質に会わせろ」と近づいた民間人の男性がメンバーに撃たれ、後に死亡した。同じ日、長野県警の警察官二人も銃弾を受け、重傷を負った。

地元住民の証言

■山荘近くの集落に住んでいた住人は語る。山の方からトントンという銃声が聞こえ、町内放送は「危ないので家の中にいてください」、「家に必ず鍵をかけてください」と繰り返す。住民たちは「山荘に連合赤軍が立てこもったらしい」と語り合う。のどかな集落は大騒ぎになりました。集落の女性は、別荘の管理事務所につめ、駆け付けた警察官たちに食事をふるまう役割を担ったという。

■膠着状態が続く中、そこで警察がとった作戦は、建物の解体に使われる鉄球で山荘の壁を破壊するという、いまに語り継がれる「鉄球作戦」であった。
 重さ1.7トンの鉄球で壁を壊し、1階に警視庁第9機動隊、2階に長野県警機動隊、最後に3階に第2機動隊が突入し、最後の攻防戦を繰広げ、重傷者を出しながらも、3階にいた犯行グループ全員を生きたまま逮捕、人質を無事救出することができ、熾烈を極めた闘いは幕を閉じたのだった。

(会報誌 2022年5月)