中田 瑞穂と「中田みづほ画集」

暮らしのヒント

日本の脳神経外科の基礎を確立した医師

 中田先生は島根県津和野の出身で東京帝国大学医科大学で学び、欧米へ2度の遊学、新潟医科大学(現・新潟大学医学部)教授として、脳神経外科体系の基礎を作り、近代化に力を注ぎました。第1回日本脳・神経外科研究会(現・日本脳神経外科学会)を新潟で開催。日本初の脳神経外科の専門講座を新潟大学に開設しました。

 先生は学生時代から高浜虚子(たかはまきょし)に俳句を学び、法医学の教授となった高野素十(たかのすじゅう)、同僚で内科学教授の濱口今夜(はまぐちこんや)と一緒に「真萩会(まはぎかい)」という俳句の結社を作り、共にホトトギス派の俳人としても活躍。又、写生画や書でも才能を発揮し、その縁で、會津八一(あいづやいち)とも親交があり「心友合作」という「詩書画一致」のコラボレーションを楽しんでいました。このことから八一の主治医となり、八一の最期を看取りました。又、脳神経外科の分野での研究が認められ昭和42年に文化功労者に選ばれました。

 余談ですが新潟大学医学部について少し触れてみたいと思います。
 新潟で最初に医学教育が行われたのは、新潟市中央区の毘沙門島にあった仮病院(共立病院)で、一等主医・竹山屯(たけやまたむろ)が担当、竹山は入澤達吉の母方の叔父にあたります。その後、官立(国立)専門学校が、千葉、仙台、岡山、金沢、長崎に開校し、新潟の医専は軍医総監督石黒忠悳(いしぐろただのり)に陳情、「北越医学会」の後押しもあり、数年遅れで開校しました。
医専が医科大学に昇格し、現在の新潟大学医学部となりました。新潟の医学は全国でも指折りの伝統と歴史を持っていると言えます。

 中田先生(俳号は櫓翁(ろおう))の一句を紹介します。
「学問の 静かに雪の 降るは好き」
(新潟大学医学部脳研究所の中庭に句碑が立っています)
参考文献:「にいがた 文化の記憶」新潟日報事業社

高浜虚子 愛媛県出身、明治から昭和期に活躍した俳人。正岡子規に学ぶ。
高野素十 茨城県出身、医師、俳人、高浜虚子に学ぶ。客観的写生俳句の忠実な実践者。
濱口今夜 和歌山県出身、医師、俳人、中田瑞穂に句作を学ぶ。
會津八一 新潟県出身、歌人、書家、東洋美術史学者、早稲田大学教授、
     8月1日生まれで「八一」、雅号は秋艸道人(しゅうそうどうじん)。
上は、中田瑞穂と親交の深かった人たち。

かきもち
画集より「かきもち」。寿(じゅ)にして康(こう)とあり。

下は、中田瑞穂の御子息の文。詩書画からその人となりが偲ばれます。
絵を描く父
葉に虫食いの穴があればそれも、枯葉や枝折れがあればそれも、そしてジョニーウォーカーの飲み残しもビンの透明度も、克明に描写する。
父は絵を描いているとき、いつも機嫌がよかった。
「へー、きょうは石か。」と言うと、「医師だからサ。」と言って二ヤ~。
失敗して丸めてしまい、また新しい紙を画板にとりつける。
「どうも色がむずかしいよ。」と、しばらく石をながめ、たばこを一本抜いてパイプにさしいつの間にか母の手がスッと来てマッチの火がつく。
一服をうまそうにくゆらし、くわえたまま眉を少ししかめながらまた筆を動かす。
そんな父の顔がわたしは大好きであった。
ツタンカーメンの像の話になると、きまって「金色を使わないで金の色を出すのだからナ。」と得意そうであった。

昭和51年7月 中田紳一郎
中田みづほ画集(新潟日報事業社)より
(会報誌:2022年1月)