著『順徳天皇』余話

暮らしのヒント

山田 詩乃武

 『順徳天皇』を今春、上梓した。早速発売直後から各方面から反響が少なからずあり、1か月を経ずに重刷となった。その要因として、本年令和3年(2021)は順徳院が「承久の変」に敗れ鎌倉幕府執権、北条義時により佐渡に配流されてから80年という大きな節目の年に当たること、来年令和4年にはNHKの大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』が放映され、主人公は北条義時で小栗旬が演じること、などがあげられるかもしれない。

 順徳天皇は第84代天皇。諱(いみな)は守成。父、後鳥羽上皇(第82代天皇)と母、藤原重子の皇子として建久8年(1197)9月10日に生れる。承元4年(1210)11月、14歳で即位。承久3年(1221)皇太子懐成親王に譲位し上皇として「承久の変」を戦う。変に敗れ同年7月、配流先の佐渡に向け京を出立。在島22年、環京の望みが断たれたことを悟り自裁を決意し、仁治3年(1242)9月、御命を絶つ。享年46。佐渡での謫居生活ゆえ「佐渡院」とも称された。
 順徳院は『増鏡』などの記述から「性格は素直で才気煥発、父譲りの武断的気性も併せもち母に似て軀貌は閑麗であった」という。46年の生涯中、知られている皇子女は12人いる。内、佐渡で儲けられた御子は慶子女王、忠子女王、成島王(千歳宮)とされているが、第六皇子善統親王(よしむねしんのう)(四辻宮)(よつつじみや)も佐渡生まれとの説もあるが定かではない。善統親王は京で順徳院の実母、修明門院(しゅうめいもんいん)(重子)のもとで成長し、その養子となり四辻宮と呼ばれるようになった。この四辻宮が宮家の嚆矢とされる説もある。

順徳天皇

 本書を書く上で参考となる順徳天皇に関する資料が僅少で苦労した。後世に残る『禁秘御抄』『八雲御抄』、歌集『紫禁和歌草』『順徳院御百首』などを著し、さらに『小倉百人一首』に入集されるほどの才に溢れる順徳院のまとまった書籍や論文、記述がなかなか見当たらないのが現状である。
 それは、自裁を決心された時、後世穢されないように、と近習に命じ真野山の頂で、御宸翰(しんかん)、御誦読の御経等を焚いて埋めるよう命じたため記録が残されていないからである。小佐渡山脈にあるその頂には塚が築かれたため経塚山と呼ばれることになった。
 順徳院には平清盛の血が入っていることも興味深い。実母、重子の曾祖父、平教盛の兄が清盛である。さらに御年8歳で壇ノ浦に入水した安徳天皇は清盛の外孫で順徳院の伯父にあたる。平家の頭領、平清盛は傲慢な性格で冷酷な暴君との悪評が世上広く定着しているが、一方、温厚で情け深いところがあり婦女子や下位の者には優しく、政治・経済面では先見性が高かったとの評価もある。
 順徳院は幼少時、祖母、平教子に養育され「源平の戦」の話を繰り返し聞かされたことにより、反源氏、反鎌倉の萌芽が幼い心に宿ったのかもしれない。

 前述の順徳院の第6皇子善統親王の玄孫に室町幕府第2代将軍、足利義詮(よしあきら)の妻となり3代将軍、義満の生母、紀良子(きのよしこ)がいる。このため義満は母系に皇統の血を引く貴種として廟堂の最高職、太政大臣を務め皇位簒奪の野望すら持った。その義満は能の大成者、世阿弥を寵愛したが六代将軍、義教は世阿弥を冷遇し果ては高齢の世阿弥を佐渡に流しさえした。
 順徳院を中心とした歴史上の人物円環はまだあるが、8月29日の新潟日報に掲載された女優で文筆家の村松英子先生による書評の抜粋を記して擱筆する。
 
 ―山田詩乃武氏の「順徳天皇」は愛の書といえるだろう。この力作で語られる愛は、まずタイトルの順徳天皇に捧げられている。次に順徳天皇が流された佐渡にむけられている。(中略)その後半生を、山田氏は院の和歌に添うように優しく描く。同時に、(中略)実に多くの文人たちの、佐渡と院に関わる和歌、文章を紹介している。おかげで佐渡へまだ行っていない私も、当地を淋しい孤島などと思わずにすんだ。明るい美しい島の親切な人々に院は敬愛された。(中略)山田氏に啓蒙されて、順徳天皇と佐渡が私にも身近になった。(後略)。―

(会報誌:2021年11月)