想いは「越後の雪椿」―「雪椿」ユキツバキの発見・命名秘話(1/3)

暮らしのヒント

父から語り継がれた「雪椿」発見にまつわる話

 まだ、若き日の春、父と私は東蒲原郡の麒麟山の山中にいました。麒麟山はそんなに高い山ではないのですが、それでも薄っすらと汗ばんだ体を爽やかな風に委ねていました。足元を見ると、雪椿がそこかしこに見られ、滔々と流れる阿賀野川を眼下に、何とも言えない安らぎをおぼえたものです。父は何も語らず、じっと佇んでいました。ゆったりとした河の流れの先に、父の思いははるか60数年前にさかのぼり、あの日のことを鮮明に思い起こしているかのようでした。

 今、新潟県の花は「チューリップ」県の鳥は「とき」 そして県の木は「雪椿」です。そして県の資料によるとこの「雪椿」は昭和25年に東京大学の本田正次博士によって命名されたとなっています。これは、事実なのでしょうか?
一方、雪椿というとあたかも一般には、加茂市を思い起こし、公式の見解でないにもかかわらず、発祥の地と思っている方が多いのも事実です。これは何故なのでしょうか?
 県の農業高等学校の先生方から「雪椿の発見者は、本当は髙橋與平先生だってね」と言われて久しくなりました。しかし、これは全く事実ではありません。その度ごとに、私は何度も何度も否定してまいりました。ただ、このままですと間違った情報が錯綜し、混乱をきたしてしまいます。

 それでは、父から聞かされてきた、雪椿にまつわる話を、少し述べさせていただきます。

 父の思いは、遠く明治39年3月にさかのぼります。春まだ浅いあの日、父は勤務先の農学校の教頭丸山忠次郎先生のお供をし、東蒲原郡に悠然と屹立する名峰麒麟山に登りました。
 ここで、当時の父を少々述べさせていただきます。父は、明治16年12月13日、新潟県、現在の東頚城郡松之山町中尾に、生をうけました。


名峰麒麟山

 後、新潟師範学校に入学(新潟大学教育学部 現在の新潟大学教育人間科学部)そこで終生の無二の友、同年6月生まれの南蒲原郡下田村の諸橋 轍次先生と知り合うこととなります。先生は、文化勲章受章者、不朽の名辞典「大漢和辞典」の編纂者であることはあまりにも有名です。
 農学校とのかかわりは、師範卒業後、東京帝国大学農科大学農業教員養成所(後東京教育大学農学部を経て現在の筑波大学)を卒業、農業教員となったことからです。
 そして、最初の赴任地が津川、今の県立阿賀黎明高等学校、前津川高等学校のさらに前身の東蒲原郡立実業補習学校でした。そのときの津川の印象を、父は昭和57年刊行の県立津川高等学校八十周年記念誌のなかで述懐しています。

 「津川盆地の景色は、遠くの御神楽岳は皚々たる白雪に覆われその威容を誇り、奇岩怪石の麒麟山は老松がその美を添え、阿賀野川は洋々、常浪川清流は滾々、又道路の両側には千紫万紅と花々が一面に咲き乱れて妍を競い、なんともいえない清潔感が溢れていました。山紫水明という形容はこんな景色を云うのであろうかと一驚を喫し、この地に赴任したことを、心から喜んだものであります。」と述べています。そしてそこでの教頭は、帝大の一年先輩、丸山忠次郎先生でした。先生は、後中条農学校長、柏崎農学校長などを歴任されています。
 
 さて、当時の教育界をとりまく状況を述べさせていただきますと、明治政府の正式教員免状を持つものは極めて少なく、ほとんどが代用教員という時代でした。ですから、明治政府の正式の免状さえあれば卒業後日が浅くても教頭にもなれたのです。わたしの父ですら、後、東京に出て、30歳そこそこで新設の千駄ヶ谷第二小学校の校長になりました。生徒数900余名、一クラス約50数名、教員4~50数名の学校でしたが、本科正式教員免許所持者は、父ともう一人教頭だけ、そういう環境でした。そんななかで、教え子のうちから、大臣一人、最高裁判事一人、参議一人、県知事二人を輩出することが出来たのは、この小学校校長の時でした。若い、新生・日本が希望に燃えた時代でもありました。

2/3)へつづく
(会報誌:2021年9月)