山本元帥縁の地を訪ねて

暮らしのヒント

大原 精一(広報委員・越後長岡ふるさと会)

一.初めに

 長岡と聞くと、「河井継之助・米百俵・山本五十六・花火大会」を思い出される方が多いと思う。これらは相互に関連を有している。
 山本五十六元帥は、戊辰戦争で河井継之助と共に西軍と戦った山本帯刀が亡くなった後、長岡藩屈指の名門・山本家を継ぐために養子になった人である。また、戊辰戦争後に米百俵により設立された長岡中学(現在の長岡高校)の卒業生である。更に、花火大会は、山本元帥が指揮を取った真珠湾攻撃の報復(そうではないと言う説もある。)で長岡が爆撃を受けた際に亡くなられた市民の冥福を祈るために始められたものである。


山本元帥の胸像

二.山本記念公園

 今回は山本五十六元帥縁の地を訪ねてみたい。
 まずは山本元帥の生家跡にある「山本記念公園」である。元帥は「高野」家に生まれているので、ここはその「高野」家の跡である。町の真ん中にあり、長岡駅から徒歩で十分程の場所にある。公園の正面には元帥の胸像が立てられている。
 公園入口の左手には元帥の生家が復元されてある。質素な家であり、当時が偲ばれる。


山本元帥の生家

三.山本五十六記念館

 山本記念公園から徒歩五分弱で「山本五十六記念館」に到着する。山本元帥縁の品がたくさん展示されている。その中でも特に目を引くのは飛行機の左翼である。それは元帥がソロモン諸島へ兵士の激励に向かった際に搭乗していた海軍の陸上攻撃機の左翼部分である。1989年にパプアニューギニア政府が里帰りを許してくれたものである。

 米内光政、井上成美と共に海軍の条約派三羽烏として戦争反対の立場にありながら、戦争突入時に連合艦隊司令長官を命じられ、真珠湾奇襲作戦を策定せざるを得なかった元帥の心中を推察し、この焼け爛れた翼を見ると、思わず涙が湧いてきてしまう。


山本五十六記念館

四.長岡高校記念資料館

 元帥が卒業した長岡中学は米百俵により設立された「洋学校」の流れを引き継いでおり、現在は長岡高校として存続している。同校には記念資料館があり、米百俵の主唱者である小林虎三郎や三島億二郎他多くの長岡関係者の資料が残されており、山本元帥の書簡等も展示されている。


焼け爛れた左翼

五.長興寺

 元帥の墓は山本家の墓所・長興寺にある。
 山本家は譜代家老の家柄であり、長岡・牧野藩きっての名門であった。戊辰戦争の際、山本帯刀は長岡で奮戦した後も会津で戦い続け、最後に西軍に捕らえられ、降伏を強いられたが、「藩主われに戦いを命ぜしも、未だ降伏を命ぜず」と言い放ち、斬首されたと言われている。この「山本」家の存続を図るため養子に選ばれたのが高野五十六であったのである。
(会報誌:2021年8月)


[参考情報]
一.山本記念公園(長岡市坂之上町3)
・公開公園(年中無休)

二.山本五十六記念館(長岡市呉服町1-4-1)
・10:00~17:00
・休館日:年末年始
・入館料:500円

三.長岡高校記念資料館(長岡市学校町3-13-10)
・月~金:10:00~15:00
・休館日:土・日・祝日
・無料(館の維持にご賛同の方は協力金を)

四.長興寺(長岡市稽古町1636)

[写真提供]
長岡市商工会議所
長岡市役所地域振興戦略部