私にとっての長岡空襲

会の活動報告

三條 和男 氏(東京関原会会長)

 長岡市は、山本五十六元帥の出身地で商工業の町。これといった軍事施設があったわけでもない長岡に戦争末期、凄まじい空襲が2回もあった。昭和20年8月1日、一夜にして町を焼失させた焼夷弾爆撃は、2回目だった。1回目は7月20日で、新潟市が原子爆弾の投下予定都市として挙げられていたために(なんと!)投下の事前訓練だったとのことでした。

 8月1日の空襲は、午後10時26分に突然、照明弾を投下し、続いて焼夷弾の爆撃が翌2日の午前零時10分まで続き、コの字型に発生した火災は、市民を袋の鼠にして市街地を焼き払った。投下された焼夷弾の量は925トン16万発余が文字どおり豪雨のように降りそそぎ、長岡の街を焼き払った。この空襲によって、市街地の約80パーセントが焼け野原となり、学童約3百名を含む1470名余の尊い生命が失われた。

 悪夢の一夜が明けて、一面の焼け野原と黒焦げになった無残な遺体。亡くなられた方のうち一番多かったのは、平潟神社と柳原の神明さまの境内、そこに掘られた防空壕。それに、その近くを流れる柿川の中であった。遺体を焼く火は三昼夜も続いたという。そして長岡空襲から二週間後の8月15日に終戦の日を迎えた。

 米国民はこの凄まじい日本への爆撃を知っているのだろうか。軍需施設などの攻撃だけでなく、大勢の民間人を袋の鼠にして焼殺するという長岡空襲は長岡市民が終生忘れることのできない出来事であり、2度と悲しい歴史を繰り返さないために、この地で起こった悲しい歴史を次代に語り継ぐ責務を負っている。

 今から丁度72年前の8月1日、卓話者の三條さんは、小学校6年生だった。長岡空襲の猛火の中を家族と共に逃げ惑った。そのときに目撃した空襲の惨状(役に立たない防空壕、召集令状を家に取りに行って爆弾が直撃、爆弾の落ちた場所には2度と落ちないと信じた人が被弾されるなど)、泣き声、叫ぶ声、まさに地獄絵さながら息をころして一夜を過ごすのが精一杯でした。その長岡大空襲は、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六への報復だったのだろうか?

 山本五十六は、長岡で生まれ育ち、実際に外国へ足を運んだこともあってか国力の違いを見てきているため、誰よりも太平洋戦争に反対したという人物です。わが身の危険を顧みず、奇襲攻撃を諫め真珠湾攻撃をする前に開戦通告を行うように主張、また、日独伊3国同盟に断固反対、戦艦大和の製造にも反対、これからは空中戦だと主張して海軍省からにらまれたとか。

 それらの意に反して、連合艦隊司令長官として未曽有の大戦争の指揮をとった山本は、1941年秋、首相の近衛文麿から日米戦争となった場合の見透しについて聞かれ「それは是非やれと言われれば、半年や一年の間は暴れてごらんに入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てない。三国条約ができたのは仕方がないが、かくなりし上は極力日米戦争を回避する様にご努力を願いたい。」と、述べていた。『近衛日記』

 1941年10月、東条英機が首相に就任、日本海軍による真珠湾攻撃~陸軍による英国領マレー半島上陸を決意し、太平洋戦争への道を突き進むことになった。

 この真珠湾攻撃を立案、指揮したのが山本だったが、その後、1943年4月18日、パプアニューギニアのブーゲンビル島上空で米陸軍航空隊に撃墜され戦死した。博打が好きで将棋を趣味としていたが、酒は飲まず甘いものが好きでお洒落な人物だった。揮毫を頼まれると「常在戦場」と好んで書いていた。「和敬精神」を重んじ、河合継之助を尊敬していた。

 戦前と戦後。靖国神社は“鎮魂” を目的としていたはずが、“慰霊” から“顕彰” へと変化した。第二次世界大戦中、日本兵が戦友との別れ際に「靖国での再会」を誓ったように、靖国神社は日本兵の「心の拠り所」となり、戦死者は「英霊」として祀られた。しかし、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、終戦直後の1945年12月15日に信教の自由の確立や軍国主義を排除するため、国家神道を廃止し、靖国神社は翌46年に制定された宗教法人法に基づき同年9月に宗教法人となった。

 靖国神社に祀られる「神」は、戦死、戦傷病死をした軍人、軍属とそれに準じる人々であり、新たな戦死者が出るたびに「祭神」に加える合祀の手続きが取られていた。ところが、極東国際軍事裁判(東京裁判)におけるA級戦犯が合祀されるようになったのは、不合理だと思われる。

 日本は戦争に負けたが、これからは世界平和のために外交で勝つことが肝要だ。歴史は繰り返す。ムキになることなく、今だからこそ、武力を排し和敬精神をもって不戦の誓いを貫き、英知ある平和外交に徹することだ。と三條さんは強い言葉で話を締められた。
(2018年4月 広報誌)