思い出のおふくろの味

暮らしのヒント

弁理士 牛木理一(県人会理事)

平成31年5月31日に天皇・皇后の地位を引退された明仁さんと美智子さんは1歳違いの夫婦でありましたので、その昔はいずれも昭和16年4月から始まった新学制の国民学校時代の生徒となったのです。私もそうであり、長岡市立表町国民学校に入学し、5つの金ボタンの制服と校章の付いた帽子を被って雨の日も雪の日も長い道程を、蓮根田圃路を通って行きました。(金ボタンは後日没収され、黒いガラスボタンに変えられました。)

 当時、私の祖父治作は浦佐から来岡して、一人で始めた鍛冶屋をやや大きくした「牛木鐵工所」を経営していましたが、自宅は同じ工場の敷地内にあり、また広い畑もあり母はいろいろな野菜を作っていました。父一男の特許事務所だけは表町5丁目にあり、裏に流れていた柿川の橋を渡った所に前記表町小学校はあったので、帰校時には賑やかな表町通りに来て遊んでいました。しかし、昭和20年に入ると、敵機襲来のおそれから毎日自宅に急いで帰りました。

 ところで、国民学校の1年、2年の担任に斉木直司先生がおられ、当時評判(?)の綴り方教室の授業をやられていたことが問題になり、同校には居られなくなり、斉木先生の郷里の十日町市に移動されたということを聞きましたが、当時、学んでいた科目「修身」に反するような内容のものであったようです。移動されてから、私は斉木先生には全く会っていません。

 当時、表町国民学校には、東京の駒沢国民学校の同学年の疎開児が多勢在学しており、市内のお寺や料亭などに分散して宿泊したのですが、われわれはたまに宿舎を訪問する程度で、大都会の子供との交流といえるようなつき合いはありませんでした。ただわれわれとしては、彼らが親御さんたちから離れて地方に疎開していることから、可哀想だという思いはいつもしていました。

 昭和20年8月1日夜、敵機襲来により長岡市は、捕虜収容所のあった郊外の蔵王町の一部を残して、人口密集地帯を中心に焼夷弾が雨あられのごとく落下したのです。当夜の爆撃中心点は、前記表町小学校の旧校舎があった明治公園でしたが、私も自宅の敷地に作られた防空壕の中から、夜空に開くナパーム弾の花火を見上げていました。しかし、私共家族は、防空壕は危険だと言われたので、近くの長岡商業学校(現・県立長岡商業高校)のグラウンドに逃げて一夜を明かしたのです。

 朝、自宅に帰ると家も工場も防空壕も全部焼失していたし、道端や畑には不発の焼夷弾が突き刺さっていたのです。その朝に、子供らに母が作ってくれた朝食は、焼け焦げの米と味噌による雑炊であったり、畑からもいで来たキュウリやナスであったのですが、その時のおふくろの味は今でも忘れられません。

 今年も8月1日がやって来ます。もし当時の日本政府が一日も早く、昭和20年7月26日に告示されていた連合国による「ポツダム宣言」を受諾していれば、米国による長岡空襲のみならず、8月6日の広島空襲や8月9日の長崎空襲はなかったのです。幸い、8月14日に受諾したことで、第3の原爆投下候補地であった新潟は救われたといえるでしょう。

 空襲時に食べた焦げた米飯と味噌とによるおふくろの味だけは、二度とご免こうむりたいのです。
(会報誌:2019年8月 牛木 理一)