佐渡小判

暮らしのヒント

佐渡金銀山世界遺産早期登録五度目のチャレンジ
「佐渡小判」

貨幣経済に貢献した佐渡金銀山

江戸期の貨幣は、金(小判、一分判)、銀(丁銀、小玉銀)、銭(寛永通寶)が併行流通した三貨制度でした。佐渡金銀山は、その豊富な産出により江戸期の貨幣制度を支えました。全国通貨としての金銀貨幣は豊臣秀吉が始めたものですが、徳川家康は佐渡金銀山の金を基に全国的な金本位制を導入することで、銀本位制であった明国の経済圏から独立できたとされています。

佐渡奉行所で小判も作った!

佐渡奉行所では、金銀生産だけでなく、小判も作りました。当初は、割った竹に金を流して作る「竹流金」という延金を江戸に送りました。しかし、佐渡から本土への海上輸送が危険であることから、元和7年(1621)、佐渡奉行の鎮目市左衛門の建議で、佐渡で小判を作ることになりました。市左衛門は贅を尽くして建てられた大久保長安の数奇屋造りの屋敷を取り壊し、後藤役所を建て、江戸から金座の後藤庄三郎の手代、後藤庄兵衛や小判師などが赴任、本格的に小判の製造を行いました。

金の生産現場での貨幣鋳造は、世界的に極めて珍しいことです。島という隔絶した地理的条件と、奉行所による一元的な管理体制がこれを可能にしたのです。佐渡での小判の鋳造は元和7年から文政元年(18181)まで。このうち慶長佐渡小判は元和7年より元禄8年(1695)までに約145万両と推計されています(全体の1割前後か)。小判の作り方

佐渡でつくられた小判
佐渡でつくられた小判と一分金

小判には、金の純度の高い金銀の合金を用います。まず、合金を溶かしてのべ板状に叩き延ばしたものをハサミで小判1枚の重さ(慶長小判なら17.85グラム)の「荒切金」に切り分けます。槌で叩いて小判の形に成形するので「茣蓙目(ござめ)」という模様がつきます。金銀の合金であるため「青小判」といわれ、その後、硫酸塩や硝酸カリウムなどの薬品を塗り、熱を加える「色揚(いろあげ)」を行って、黄金色に仕上げます。

表面には上下に桐紋を囲む扇枠、中央上部に「壹两」、下部に「光次(花押)」の極印、裏面は中央に花押、下部の右ないし左端に小判師の験極印、さらに吹所の験極印として「佐」を打印して完成です。

小判は世界へ

江戸幕府は寛永16年(1639)、鎖国令により、海外貿易を松前・対馬・琉球、長崎出島でのオランダと明との交易のみとしました。当時オランダは、東インド会社(VOC)のアジア本部(ジャヴァ島のバタヴィア)の監督のもと、出島に商館を設置。幕府は小判を交易に使いました。小判はオランダVOCがインド交易に使ったり、バタヴィアにおいてはVOCの刻印をして現地通貨として、世界を駆け巡ったのです。

もちろん、これらには佐渡小判も含まれていました。小判は鋳つぶされてインゴットなどにされる宿命にあり、なかなか証拠をつかむのが難しいのですが、オランダ銀行は佐渡小判を所蔵していますし、大英博物館もVOCの刻印をした小判を所蔵しています。鎖国下で世界を飛び回った小判、尊敬に値しますね。

【閑話】
金の魅力 金の魅力は、その不思議な金属性にあります。
(1) 錆びない…黄金の輝きは光の色の青を吸収し赤と緑を反射してのもの。錆びないからその輝きは永遠。古く
から装飾品に利用。

(2) 溶けない=王水(濃塩酸3と濃硝酸1の混合液)以外には溶けない(ヨードチンキには緩やかに溶けるので注意)。

(3) 柔らかく伸びる=一グラムの金は糸にすれば約三キロメートル、板にすれば約畳二枚の金箔に。

(4) 重い=金の比重は19。鉛11、銀11、銅9、白金21。

(5) 熱や電気をよく通す=金より熱伝導率、電気伝導率が高いのは銀と銅のみ。だから普遍的な価値を認められ、それ自体で通貨に。今日では金の優れた金属性がエレクトロニクス産業に無くてはならないものとなり、金の需要は高まっています。

佐渡を世界遺産にする首都圏の会 伊藤 功
 (会報誌:2019年5月)