『火焔型土器』に魅せられて

暮らしのヒント

樋口 高士

Ⅰ、火焔型土器「発掘」からの、これまでの「歩み」

1.昭和11年 馬高遺跡(長岡市関原)で始めて発掘
2.昭和31年 岡本太郎「縄文の美」を日本文化の源流と
3.平成11年 十日町笹山遺跡出土品・国宝に指定

昭和57年7月。郷里十日町を離れて既に25年の歳月が流れていた当時。十日町の旧・中条・笹山のグラウンド開発現場から、大量の、しかも大変状態のいい火焔型土器が発掘された、という一報がもたらされた。
 この報が、その時、強く私に作用したのは―昭和31年に刊行された岡本太郎氏の著作『日本の伝統』の中で、始めて、「縄文の美」こそ、日本の伝統文化の源流であるという問題提起をしていたことが頭にあったこと。さらにその後、同版元に所属するという縁もあり、一度インタビューのため、旧・高樹町の岡本邸を訪れたこともあったからである。
 そんなことから、火焔型土器に興味を抱き、以来、「縄文人」の熱気を帯びた直截な造形感覚に強く魅せられてきたのだった。
 ここでは、まず、5千年の時を経て、現代の私たちの世界に立ち現れた火焔型土器の、その後の「歩み」をごく簡潔に整理。


火焔型土器:写真提供 十日町博物館

◎ 昭和11年12月31日。長岡・関原の篤志家・近藤篤三郎氏の手によって発掘。その焔を思わせる形態から「火焔土器」と名付けられた。なお後に、この馬高の地は、大規模集落跡であることが判明。昭和54年、国の「史跡」指定を。
◎ 昭和31年。岡本太郎著『日本の伝統』において縄文の美こそ日本文化の源流と問題提起。一躍、火焔型土器が脚光を浴びることとなった。抽象画家・岡本太郎氏は、約10年のパリ在住の間。ソルボンヌ校でМ ・モース教授より民族学を学ぶ。そんな氏の「知的土壌」が、縄文の美の評価に繋がったのではないか。
◎ 昭和57年の十日町笹山遺跡からの出土品は、総点数928点にも及ぶ。その後、丹念なる復元作業を経て、まず県指定文化財に、次いで国指定重要文化財を経て、平成11年には新潟県初の国宝指定を受けることになったのである。

Ⅱ、「信濃川火焔街道連携協議会」の試み

1.母なる信濃川の流れに沿って、県内、100ヵ所以上に遺跡
2.関係6市町(新潟・三条・長岡・魚沼・十日町・津南)が連携
3.2020年「東京五輪」へ向けてのアプローチ

 火焔型土器の主たる遺跡は、主に信濃川の上・中流域~津南町から新潟市にかけて~に100ヵ所以上集中して分布している。
 「信濃川火焔街道連携協議会」は、これ迄、新潟市、三条市、長岡市、魚沼市、十日町市、津南町の6市町が、交流・連携をはかり、「縄文文化」推進のために様々な活動を実施してきている。
 平成28年12月~29年2月に東京国学院大学博物館で開催された『特別展・火焔型土器のデザインと機能』も、その一つ。国宝1点、国指定重文8点を含む、71点の火焔型土器が一堂に会した様は、まさに壮観であった。

 平成29年11月。火焔街道連携協議会関係6首長、顧問の小林達雄国学院大名誉教授ら一行9名が、衆議員会館に遠藤利明・東京五輪組織委員会副会長(元・五輪相)を訪問。火焔型土器の聖火台モチーフへの採用、メダル・デザインへの採用など、「縄文文化」の採用・発信を要望した。要望書では、「日本の縄文文化は、人類史における主要なレガシー。この日本文化の源流でもある類稀な遺産を、五輪を機に、是非世界に発信したい」と強調している。
 積年の火焔型土器愛好家としては、要望実現を祈るのみである。(2018年03月)

(写真=国学院大学博物館・「特別展」にて)